2010-10-12 第176回国会 衆議院 予算委員会 第2号
ただ、先ほど議論があったように、中国の軍は党の軍であるという位置づけだと認識しておりまして、今言われた、党の軍事委員会と政府のそういったものが二つあって実態的には同じだということの御指摘がありましたが、それに加えて言えば、根本的に、まあ歴史的にと言ってもいいのかもしれませんが、かつて八路軍という言い方がされたわけですが、そういうところから中国共産党というものが歴史的に成り立っているという意味においても
ただ、先ほど議論があったように、中国の軍は党の軍であるという位置づけだと認識しておりまして、今言われた、党の軍事委員会と政府のそういったものが二つあって実態的には同じだということの御指摘がありましたが、それに加えて言えば、根本的に、まあ歴史的にと言ってもいいのかもしれませんが、かつて八路軍という言い方がされたわけですが、そういうところから中国共産党というものが歴史的に成り立っているという意味においても
敗戦になって、成り行きで八路軍の人たちと一年間生活をともにして、四六年の暮れに日本へ帰ってまいりました。何とかしてその間費やしたものを取り返そうと思いながら、改めて学校に行って教師になりました。焼け跡の学校はないものばかりでしたけれども、豊かな心と大きな希望がありました。 学習指導要領は試案でした。
先日もありましたけれども、中国の八路軍、古いですよ、私は生まれていませんけれども、その中に書いてある言葉があるんです、毛沢東閣下ですけれども。 毛沢東閣下はどういうことを言ったかといいますと、我々の基本方針は帝国主義と国内の敵の軍需工場に依存することである。わかりますか。自分たちでつくるとは言っていない。敵の軍需工場が我々の軍需工場だとおっしゃっている。
日本軍がいままで、駐屯していた各占拠地から全面撤収するにあたって、八路軍はその上拠地への国府軍の進駐を阻止するため鉄道や主要道路を各所で爆破したため日本軍民の帰国列車の運行に大きな障害となっている。八路軍よりも劣勢な国府軍に依存していたのでは復員促進は不可能であり、在留邦人および軍の主力を速やかに輸送するためには日本軍が自ら輸送機関を守らねばならぬ。
問題は、戦争が終結したにもかかわらず、二千六百名の将兵が軍の命令で八路軍と戦うために中国の山西省に四年間残留した、こういう問題であります。しかし、政府は、これは軍の命令によって残留したのではないというこの立場、これをとって、この立場からこれらの残留兵士に対して何らの措置も講じてこなかった、これが山西省残留問題であります。
これは、御承知のとおり、中国の山西省で二千六百名の将兵が当時の中国政府軍を支援し、中国共産党の八路軍と戦うというために残留をした問題です。この政治的な中身について私はあれこれここで問題にしているのではございません。問題は、この残留された方々の処置の問題であります。
○山中(邦)委員 何となくぴんとこないのですけれども、今おっしゃっている山西軍というのは、現地に残留をして閻錫山と協力をして八路軍と対抗した組織を指して言っているわけであります。それが二千六百、それはそれでよろしいのですが、正確に第一軍所属将兵中現地除隊をした者はだれであるか、その総人数は幾らだということは把握しているのですか、いないのですか。
これは満州でございますが、国民党軍が戦争に負けて逃走しました後八路軍が入ってまいりまして、その後解放戦争が行われたわけですが、この解放戦争中に看護婦が足らないために、日本の十八歳以上三十歳以下の未婚の女性は全部強制的に徴用されました。これは本人が喜び勇んで行ったのではない、無理に強要されたんです。行かなければ遺族が困るし、現地の居留民が大変苦境に陥る状況でありました。
問題の箇所というのは、「野坂参三名誉議長が戦時中、わが国と交戦した八路軍の手先きとなった事実が示すように、共産党員の中には旧日本帝国を敵国としたものが多く含まれている。」そういう表現です。
そして、たまたま私がその方面の県の協和会の事務長をしておりまして接触をすることができたんですが、最初国民党から依頼され、後で中国共産党から依頼されまして、その林部隊を八路軍の方へ入るように勧められたことがございます。それで林部隊は八路軍に入りました。
ところが敗戦後、獣医としての技術を持っておるというので今度は八路軍に引き続いて引っ張られて中国の内戦に参加させられて、ここでまた迫撃砲弾が近くで破裂して盲管銃創も受けるというけがをして、その後遺症でいまでも長いこと立っていることや正座ができない。先ほど申し上げた頭をけられた後遺症としてはいまでも激しい頭痛にしばしば襲われて記憶力が非常に減退している、こういうような状態だというわけです。
昭和十五年、満州国政府は熱河省の治安対策として、北支駐とん軍との協定に基づき、共産八路軍の討伐を目的とした一心隊なる日満鮮系、こう言ったら怒られるのでしょうか、まあ済みませんが、約四千名の警察軍を編成して北支国境地帯の治安警備に当たらせていた、これが一心隊というものですね。
○松田(正)政府委員 通化事件は、私が御説明するまでもなく、一般開拓団員等の一般邦人でございまして、当時通化市に集結しておりました邦人が、八路軍との間で無償労役等をめぐりまして反乱のようなことになって全員射殺をされたというのが事件の内容でございますので、これまた非常に特殊なケースであると同時に、事実上そういった場所に拘束をされていたという事実もあるのではないか、こういうようなことを踏まえて、特別未帰還者
これは昭和二十一年二月三日未明、通化省通化県の監獄に収容されていた旧満州国官吏等二千余名の者が共産八路軍に反抗の嫌疑で全員虐殺された、これがいわゆる通化事件というやつであります。これも厚生省の御配慮によって援護法を適用して救済している。それはどういう理由によって救済されておるのですか。
技術者としていまの新中国、当時の八路軍、御本人はここで「パーロ軍と言っておりました」と言っておりますが、こちらの方の軍隊にすんなり捕虜の形になって、そして捕虜生活が七ヵ年。だから、満州に合計十年いたことになるのです。 さっき、いみじくも稻村総務長官が、女性の方であるが軍人と同じだとおっしゃっておりましたけれども、私にも経験がありますけれども、まさに同じことです。これは何ら変わらない。
こうして農民と手を結んでやり始めますと、これは歴史的に見ましても、たとえば八路軍であったり、あるいはベトコンの例に見るごとく、これは力をもって制することは、ある意味じゃ不可能というようなことになってまいります。そうしますと、問題は農民の信頼を回復するしかないというような気もいたしますし、このまま続くならば力の対決として三十年戦争にもなりはしないか。
われわれ過去四十年の中国の歴史を見ても、蒋介石が政治をやっておった時代、軍閥割拠した中国大陸、それから八路軍を中心とした毛沢東の軍団、そういうものがおった。そこへ日支事変が起こる。日支事変が起こったときに共産軍と蒋介石の国民軍が一緒になって国共合作して日本軍を、抗日戦線を形成して日本を追い出す。その後、すぐに今度は共産軍はソ連から武器援助を受けて国民政府をたたく。
で、最終的に自分たちは八路軍のもとに七年間看護として尽くして、で、日本へ帰るようになったときに中国の幹部の方々から、今後日本と中国との間が大変うまくいくようであればそれは皆さんが中国に対して一生懸命に尽くしてくださったということが大きな原因の一つにもなっているんだというふうな感謝の言葉をされたにもかかわらず、日本へ帰ってきたら大変何というのですか、冷たい感じがしたというふうにおっしゃって、貧しいことを
日本の傷病兵を護送するのは軍隊の衛生兵さんばかりで、私たち看護婦は技術者として、いまの新中国、当時八路軍——パーロ軍と言っておりましたが、そちらの軍隊の方にすんなり捕虜として行かされてしまいました。それも私たちが行きたくて行ったんじゃないんです。私たちは荷物をまとめて内地に帰りたいと思ったのが、そういうふうに上部の人の話し合いがあったんでしょうか、それから捕虜生活が七年続きました。
その場合の敵軍はいまの中国共産党の八路軍、当時パーロと言っておったそうですけれども、捕えられて八路軍に介抱されて傷をなおしてもらって、八路軍と一緒に行動させられた。そうして戦闘に参加をさせられたわけではありませんし、八路軍に入ったわけでもありませんけれども、行動をともにさせられた。その間その兵隊は何とかして日本軍に戻りたい。
終戦になりまして、あの混乱期は日本の軍隊は八路軍が徹底的な敵としてやっておったわけであります。だから、閻錫山軍がこれは八路軍と対峙したわけでありまして、われわれの兵団でも昔の大隊長クラス、部隊長クラスの者が——これは名前は言いませんが、訓辞をたれて、そうして閻錫山軍に参加をせよというふうな指令を出したぐらいなものであります。
この前大臣にちょっと私、お話ししましたが、日本が戦いに敗れたときに、なぜ大陸におった二百万の日本軍、また数十万の在留邦人を帰したんだ、あれ、帰さなかったらいいじゃないか、帰さなくて、あの武力をもって八路軍と戦わしたら、現在の中華人民共和国なんてなかったじゃないか、ことに、あの軍隊の中に田中総理が、あのとき何か上等兵だったそうだか知りませんが、私ははっきりしません、さだかじゃありませんが、おったじゃないか